「国語」世界の〈Web2.0的転回〉

「あっち」で字数オーバーで乗らなかったのでこっちに載せておくことに。


「国語」世界の〈Web2.0的転回〉
〜Take me to the other side !〜

デジタルネイティブ
 アメリカでは1980年以降に生まれた世代がジェネレーションYと呼ばれ、大統領選挙などにも大きく影響を与えるなど侮れない層として意識されていると言います。属性として「楽天的」「理想的」「能力のある」「野心的」「自信のある」「献身的」「情熱的」「伝統的」などと高く評価されているそうです。
 90年以降に生まれた世代はデジタルネイティブと呼ばれています。物心ついたときから身近にPCがあった世代です。日本ではやや遅れていたとは言え ネット環境はここ数年むしろ追い越しています。私の周りでもデジタルメディアとの関わり方において数年前とは明らかに違う生徒たちが出てきています。ここではそのことが言語能力にどのように影響を与えているのか、デジタルネイティブが言語能力においてどのような特性をもっているのか考えてみることにします。
 まず彼らは PCや携帯で文章を書くことに何の抵抗もありません。その結果文章を書く量が桁違いに増えました。「手紙を書かなくなった」と言われて久しいですが、今現在高校生の無数の手紙=メールがサイバー空間(梅田望夫氏の『ウェブ進化論』で「あちら側」と命名されています)を飛び交っています。
 もちろん否定的な側面があることはたしかです。でも この流れが止まることや逆行することはありえないでしょう。そうであるなら 肯定的な側面を伸ばしていくことに力を注ぐべきではないかと思います。ここでの見解と提言は そういう立場からのものであることをお断りしておきます。

デジタルネイティブの文章力
 実際のところ 最近の高校生はひと昔前と比べて確実に文章力が上がっていると感じています。ただしデジタルメディア上という限定つきですが。
彼らのブログや彼らから届くメールを見ると、文章が というより文体が ずいぶん洗練されていることに驚かされます。柔らかく自然で伸び伸びしていてしかも読みやすい。書き言葉と話し言葉の中間のような文体を獲得しているのです。
 メールのやり取りにおいて 彼らは互いの感情に非常に敏感になっています。センシティブでもあり センシブルでもあります。相手のちょっとした言葉遣い(含:絵文字遣い)から相手の感情を読み取り 自分の言葉遣いが相手の感情をどう動かすかを充分計算して送っているのです。簡単に言えば リテラシーが向上している ということになります。
 また ブログを開いている生徒やSNS(大規模交換日記)をやっている生徒がどのぐらいいるかわかりませんが、%の単位ではなく 割のオーダー それも5割に近づいているという印象があります。少なくとも我々教員よりはずっとパーセンテージが高いでしょう。そして「あちら側」では生徒もハンドルネームもしくは本名で一人前に扱われます。昔の生徒より オトナと文章をやり取りする機会は格段に増えています。(自分を振り返ってみても、高校生時代にオトナと手紙のやり取りをしたなんていうことはまったく記憶にありません。ましてや見知らぬ不特定多数のオトナに向けた文章を書くなんてありえませんでした)
 ブログは(SNSも一定の中で)オープンが原則。不特定多数の目にさらされています。さらに人気度がカウンターで計測されるので それを意識します。
毎日人目にさらされている女優が日々美しくなるように 他人の目を強く意識する文章を毎日書いていて能力がつかないはずはありません。

デジタルネイティブの情報力
 また彼らは 圧倒的スピードで情報を手に入れる術も心得ています。
 ある教材を予告すると 関連本をAmazonで手に入れたり 指導書レベルの読解をGoogleウィキペディアであっという間に仕入れたりして待ち構えていることがあります。もちろんそこから先が我々の腕の見せ所になるわけですが、やりにくくなったのは確かです。情報(アンチョコ)を独占できていた時代は良かったけれど、もうそこには戻れないのです。

  ≪いま、世界は(以前と)本当に違う。それは、君たち一人一人が世界中のどんなことについても「情報を得る力」を持ったからだ。私が学校に通っていたころと、本当にまったく違う世界だ≫
  これは数年前にグーグル創業者の一人、サーゲイ・ブリン(1973年生まれ)が高校生向けに行った講演での言葉である。80年代と比べて今が「本当にまったく違う」のは、誰もが「情報を得る力」を持ったからだと述べた。考え方の根底には、シリコンバレーに脈々と流れるリバタリアニズムがある。

http://sankei.jp.msn.com/economy/it/080301/its0803010822000-n2.htm
 梅田望夫氏の『ウェブ時代5つの定理』を紹介したサイトからの引用です。
 彼らは 必要な本の必要なページに瞬間的に達することの出来る巨大な図書館に二十四時間いるようなものなのです。今の高校生は20年以上前の高校生には考えられない質と量の情報に祝福されています。これは慶ぶべきことです。

 要するに ITによって彼らは我々の知らない境地に達しているということです。受験第一の学校よりも むしろそうではない学校のほうが教師の知らない間にびっくりするような展開になっていることが多いのではないでしょうか(受験校は旧来の価値観の縛りが親 生徒ともにまだ強く働いています)。毎日授業中居眠りばかりしている生徒が 夜中に「あちら側」の世界で大活躍しているなんてことが日本各地で起こっているにちがいありません。
 「最近の高校生は……」と言えば「……」にはネガティブなコメントがつきものだったわけですが、今の高校生を取り巻く言語状況は極めて良好 あるいは少なくとも良好になる大いなる可能性があります。また それを使いこなしている新世代高校生が確実に現われています。
 したがって ひとまずの結論は「最近の高校生は言語環境においてスゴク幸せだ。そしてかなりの生徒がそれを活かしつつある」というものです。

●真の「言文一致」へ
 この変化を もう少し長いスパンすなわち「言語の変化」という観点から考えてみましょう。
 言語は変化がその本質です。
 例えば 日本語の「あか(赤)」の守備範囲はこの二千年で大きく変化しています。このことに いいも悪いもありません。また言語には可塑性やあいまいさがあるからこそ言語の学習自体が成り立つのです。
我々の立場は ともすると変化を認めず、たった一つの規範を伝授することが商売であるというようになりがちです。
 しかし本当は、変化の様子をメタの視点から眺めて、言語がよりうまく機能するような変化であれば その後押しをし、差別を強化する膠着や ささくれだったコミュニケーションを生むような変化だったら それは断固否定することこそを生業にすべきなのではないでしょうか。規則の番人たるよりは よりスマートなファッションモードを提案するデザイナーになりたいものです。
 例えば 「ら抜き言葉」や「敬語の乱れ」などと言われるものも、「あんなのは日本語じゃない」と決め付けるよりも、プラスマイナスどちらの要素が強いのかを見極め よりよい提言をしていくべきだと思います。(ちなみに我が校では、教員の「ら抜き推進委員会」があって、「例を挙げれる」「それは信じれないな」などと啓蒙しています)

 言語の変化をうながすものとして権力関係とメディアの変化(とその相互作用)が挙げられます。このことは「ヨーロッパにおけるラテン語」「日本における漢文」の役割の推移と、テクノロジーと時代の変化との関係に如実に現われています。
 日本語の状況を、漢文脈+和文脈の二本立てから一本化へという大きな流れの中でとらえると、今はその最終局面に入っていると考えられます。
ごく一部の権力層がその支配の道具として用いていた文語文「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ〜」が、民主主義へと移るにしたがって 耳から聴いてもややわかる文体「日本国民は、恒久の平和を念願し〜」に変わりました。
そして、高度資本主義社会・高度情報化社会を経て 誰もが情報を発信できるようになった今、文体はさらに変化しています。私見では 非常にフラットで耳から聴いてわかるような文体が増えています。リニアな結構を取るよりも あっちにいき こっちにいきしながら だんだん説得していくような構造の文章が増えています。少なくとも文章の いわゆる「上から目線」度は明らかに減ってきていると感じています。書き言葉の「です・ます」体が増えたのもその一例でしょう。
 また テクノロジーの面でも、かつて墨で一字一字書いていたものから、ペン、タイプ、ワープロへと変化し、今やほぼ話すのと同じ速度でタイピングし 即座に全世界へと発信できるメディアに囲まれています。これも文体の口語化を促しています。とくにデジタルネイティブはしゃべる代わりに書く(打つ)ことに何の違和感もないようです。むしろ書くほうが自然で流暢にしゃべれる(!)という子さえいるのです。

●提言1 デジタルでのやり取り
 そうなると 次の課題は、この能力を我々がどう活かすかということになります。二つほど提言してみたいと思います。
 提案の第一は、生徒との文章のやりとりを 少なくともその一部は 手書き・紙ベースではなくデジタル媒体にしてはどうかというものです。彼らが慣れているメディアで 彼らの土俵に乗ってみることによって日本語の可能性が広がるのではないでしょうか。
 昨年の夏休みの課題をE-mailで提出させたところ、ふだんまともに国語の宿題など提出しない生徒が期限内に出してきました。珍しいこともあるもんだと思い 訊いてみると、「携帯で宿題出せるのが面白くて」と言うのです。
「彼の脳は携帯を持つと活性化するんだろうな。原稿用紙を前にすると頭が真っ白になっちゃうけど。そうか、彼らは、携帯やPCを使えば手書きよりもずっと思ったことが書けるようになってるのかも!」と閃いた瞬間でした。
 課題を読んでみると、ブログやmixiに書くように丸山真男を論じている生徒がけっこういるのです。ネットで取り入れた情報も使い 自分なりに消化して(消化できていないものは素直にそう記し)、自分に引きつけて書いています。心配されたコピー&ペーストは 確認した限りではありません。引用のマナーも一昔前よりずっとしっかりしているのです。たぶん「あちら側」の世界で鍛えられているのでしょう。(「あちら側」ではオリジナリティの怪しいものはすぐに検索のふるいにかけられてバレてしまうのが常識です。「盗用」は実は昔よりずっと難しくなっています)
 その多くは従来の「国語」的価値観からすると「ふざけている」あるいは「くだけすぎている」と否定されるであろう文体です。しかし実に柔らかく自然に血肉になった考え(思想)を表出しています。大げさに言えば 近代初期以来の《「思想の言語」と「生活の言語」の乖離》という課題があっさり解決しているのです。
 また、表記法や 原稿用紙の使い方など 文体以前の要素も、かつては金科玉条のように扱われてきましたが、これらも大きく変わるにちがいありません。改行・一行開けの多用、多様なフォントの使用、ポイントの大小でのアクセント、顔文字、注記の活用など 手書き原稿用紙では難しかった表記の工夫を 彼らは自然に駆使しています。(横書きか縦書きかという問題も自然に淘汰されていくと感じています。もちろん横書きの方向に です。その時も我々は 目くじらを立てて拒否するのではなく、この文章は どういう理由で縦書きが相応しいのかということをちゃんと言えるようにしておきたいものです)
「国語」という枠に囚われてそれらを抑圧するのはもったいありません。むしろ彼らの工夫の中から より良い知恵を汲むことが我々の課題になっていると とらえられないでしょうか。デジタルメディアによって日本語が確実に豊かになったということを 我々は認識すべきです。

●提言2 Web2.0的授業〜Web2.0的教育審議会へ
 次の提案は、ウェブ2.0をうまく使った授業展開が考えられるのではないか ということです。
 「ウェブ2.0」と振りかぶりながら 実はその意味をよくわからず使っているので申し訳ありませんが、とりあえず「誰でも送受信でき、集めた情報を整理する機能がある無料のウェブシステム」という私なりの理解で話を進めます。その本質をよくわかっている若い世代が、「いや その理解は甘いですね。こうやればもっとうまく運用できますよ」と追い越していってくれることを期待してのことです。
 この機能を用いれば 時空間(教室、40人、50分、コスト…)の枠を超えて思考のやりとりが効果的にできるはずです。
まず考えたのが 作品読解をウェブ上で深めていくというものです。こんな手順で可能ではないでしょうか。
① 各自の読解をウェブ上に公開する。(テーマ・キーワード・冒頭での論点の提示を義務付ける)
② テーマ・キーワード・冒頭の数行を表示したページを作る。
③ テーマ・キーワードごとに分類する。
④ 各自が興味を持った読解を読む。
⑤ 評価する。(「☆いくつ」などのボタンを作っておく)
⑥ コメントする。
⑦ 評価の高い順に並べる。
それぞれの読解に必要な情報へのリンク(先行研究など)を加えれば、このシステムだけでそうとう確固とした知的空間が築かれることになると思いませんか。
 「授業でやることがなくなってしまう」という声が聞こえてきますが、もし これで授業が消えるのなら 火打ち石が 蒸気機関車が MDが……消えていったように 消えるべきものは消えるとしか言いようがありません。
しかし 私は授業が消えるとは考えません。「こちら側」の力は「あちら側」によってさらに強まります。「そこから先」は常にあって、そここそが指導者の目指す場所なのだと思います。
 上の例で言えば 次のような授業展開を考えています。
1.何より指導者自身の読解を 説得力のある形で示す。
2.①〜⑦の読解に基づいて 指導者がメタの視点から解説する。(なぜそのような読解がでてくるのか、陥りやすい誤読のパターン、文学批評の歴史で言うとどういう位置づけになるのかなど)
3.この読解によって身についた力は何なのかという検証を 別の作品でその場で試す。
4.この読解の先(延長上にある作品、全く逆の視点の作品、読解理論など)を提示する。
 現在 これを基本形にして、ネット上での問題演習の予習、推薦図書の体系化+Amazonへのリンクなどの実用化を 生徒とともに考えはじめているところです。

 そして大事な点は、このシステムは一高校に留まらず 開かれているということです。
 評価もコメントもオープンにできます(し、すべきだと思います)。どこの高校生が加わってもいいし もちろん大人でもかまいません。ひょっとすると 作者自身のコメントなんていうのもあるかもしれません。
指導者がそれぞれの得意分野でウェブ2.0を活用したシステムを構築していけば 日本の「国語」教育は格段に豊かになるし、必ずそうなると考えています。またそれらのシステムが互いにリンクしていけばかなりのスピードで広がっていくことも予想できます。
 もっと先を見ると、全国の指導者が 教材、授業、カリキュラム自体を同じように、〈集め〉〈整理し〉〈評価し〉あっていき、それをもとに各自が自分なりに応用していくようなシステムができていくに違いありません。
「この文章をこういう高校で何年生の何学期にこんな授業でやったら、こんなふうによかったよー」という声が 「ある所」にバンバン集まるのです。考えただけでワクワクしてきませんか。
(もちろんこれによって「消えて」いく組織は大いに抵抗を示すでしょうが、「こっちに賭けて早く乗り換えたほうがみんなの幸せになりますよ」とあらかじめ言っておきます( ^_^)/)
 夢のような話に聞こえるかもしれませんが、デジタルネイティブ世代が教員になり始めるここ数年で 急激な変化が訪れる と考えておいたほうがいいと思います。また変化が必ず訪れるのなら、その変化を長いスパンで考えて良い方向に導くのが 経験ある者の務めだと考えています。